前回も少し触れましたが、「治る」ことについてもう少し掘り下げて見ましょう。
と、その前に、人はなぜ「今が一番幸せか?」と考えてしまうのでしょうか。
それは、自分ではなく他人と比べてしまうというところにあります。
思想家のモンテスキューの言葉に
「ただ単に幸せになりたいと思うなら、それは簡単に実現できる。
ところが我々は、他人よりも幸せでありたいと願う。それが難しいことなのだ」
とあるように、
「隣の芝は青い」のようなないものねだりをするところにあるような気がします。
話を元に戻して、例えば腰が痛く動くのがやっとだったとしましょう。
治療や、休養、栄養、運動などで、体がなんとか動くようになりました。
これで、「よくなった」と感じれる人はまず問題ありません。
現状に感謝し更なる努力をすれば、「もっと最高」が手に入るでしょう。
しかし、こういうタイプの人があります。
「少ししか良くなっていない。私があの<飛び跳ねている人>になろうなんて、
とんでもない努力が必要だ、到底無理だあきらめよう。」と・・・、
こういう人は、まず「治る、良くなる」ことはありません。
一進一退を繰り返し、苦痛の日々を暮らすことになるのかもしれません。
精神的に病んだ場合だとこれは顕著に現れます。
「とてもつらい、ちっともよくならない、薬や休養では一時的だ一体何時になったらよくなるのか?」
考えてみてください。
元々飛び跳ねるほどの筋力、体力を持ち合わせていましたか?
嫌でも加齢し自然と体力、筋力、柔軟性は失われていきます。
そのために努力はしていましたか?
元々人格者でしたか?精神的に強い人でしたか?友人は沢山いましたか?
楽しい性格で笑って過ごしてきましたか?
つらい人には厳しく聞こえたかもしれませんが
目もくらむような高い山の頂上を一番下から眺めて、「こりゃ無理だ」と
匙を投げているようなものです。
とりあえず、見えてるその100M先でもいいし、なんでもいい
登ってみればいいのです。全部で100kmでも100m進めば残りは99.9kmに減ります。
そうしているうちに知らぬ間にゴールまであと100mになります。
三蔵法師も、エベレストに登った三浦さんも一歩づつ歩いて目的地までいったのです。
決して走って到着したわけでもありません。
いきなりそう考えられなくとも、まず現状に感謝してみてください。
今こうして生活できていること、
日本人に生まれたこと
あなたという人格が存在すること
命あること・・。
そう今幸せなのです。
今が幸せでそれが当たり前なのならば、そこから下に落ちることはありません。
そこから少し努力すればそこがまた当たり前の幸せなのです。
そうしているうちに、かつて自分が羨んだその最高になっているかもしれません。
だから、「悪い」と思っているうちは悪い、「良くなった」と思ったときが
治ったときなのです。